2月22日がニャンニャンニャンで猫の日とかで、Facebookの友人らが愛猫の写真をアップしているからか、仙台出身の俳優・水澤紳吾さんの新作「愛しのノラ ~幸せのめぐり逢い~」というネコと人間の交流を描いた感動の映画を33日から仙台セントラルホールで上映することになったからか(単なる宣伝みたいだが)はわからないが、なぜか「猫の町」の話が頭を巡り、離れなくなってしまった。村上春樹の1Q84の中の話だ。

それで、もう一度読み返そうと書棚から1Q84の文庫本23を取り出し探す。それぞれ前編後編があるから、4冊をパラパラめくると文庫の真ん中あたりにしおりが挟んであった。天吾の章。「そろそろ猫たちがやってくる時刻だ」そ、これだ。


3年前の5月。父の癌の手術があって、その夜は立ち合いが必要だった。母と東京から弟も手術に立ち会っていたが、家に帰し、僕が夜は付き添った。

1時間毎に経過を見に来ますので、その日は寝られませんよと医師に言われていたので、ガッツリ読書しながら父といよう。そう考えて、病室にいると、2130分。突然の全館消灯。焦ってキョロキョロしていると美しい看護士さんが、「消灯時間になりましたが、お話した通り1時間毎に参ります。気にならなければ、寝てていただいても大丈夫です。何かあればお声がけしますので。」と告げた。

予定外の展開に慌てたが、結局布団を被って、読書をすることにした。

そこが、天吾の章。「そろそろ猫たちがやってくる時刻だ」。

天吾(男性側の主人公)は、千葉のサナトリウムにいる父に会いに行く。購入した文庫本の中にドイツ人作家が書いた「猫の町」という短編があり、その内容が書かれていた。

一日二回しか電車の止まらないとある駅で男は降りる。町を散策するが、人は誰一人いない。しかし、夜になると猫が集まってきて、シャッターを開け、店を開き働く猫もいれば、食事をしたり楽しむ猫らもいた。そして、朝になると、猫たちはどこぞへ帰って行く。興味を持った男は、猫のいなくなったホテルのベッドで寝、レストランで猫の食べかすを食べながら滞在する。3日目の夜、猫たちは、「人間の匂いがする」と自警団を作り、パトロールを始める。驚き、身の危険を感じた男だったが、猫たちは男を取り囲んでいく。目と鼻の先に猫という距離にあったのに「匂いはするが誰もいないなぁ」と言って、猫たちは去って行く。ここまでは覚えているが、その後男はどうしたんだっけ?」その先を忘れてしまっていた。


結末はこうだ。男は、翌朝まちを出ようと駅に向かう。しかし、列車は男に気づかないかのようにスピードを緩めず走り去ってしまう。次の列車もそうだ。男は、自分が失われた存在だと知るのだった。


本を読み終えた天吾は、父と面会し、話をするのだが、なにも言わず病室のベッドで寝ている父と二人きりでいて、看護士に見つからないようあかりを隠して読書をしていた微妙に哀れな自分の姿が、「猫の町」の主人公のようであり、病室で父と一緒というのは天吾と一緒だとシチュエーションを楽しんだ。その後に出てくる「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」という台詞に、まさに当時の仕事上のトラブルを言い当てているようで、その言葉にフォーカスしてしまい、ちゃんと読み込まずページを進めてしまった。

いつか読み直そうとその章の頭にしおりを挟んでいたが、ニャンニャンニャンのタイミングで、記憶が甦り、再読のきっかけになろうとは。

そして、これは、天吾が1Q84というパラレルワールドのきわに近づいたサインだったのだということを読んでから3年も経ってに気づくという衝撃。

新たな教訓として、気づきを忘れて、強い声に従順となり、思考をすることを止め、無意識に選択を委ねてしまうとどうなるかをいい当てたのが「猫の町」なのだろう。

ブルース・リーは「考えるな、感じろ」と言っていたが、今やPCやスマホに大脳を占拠されゲームやネットサーフィンしているだけで時間を浪費するな。時間は少ないんだから、「思考を止めるな、感じることも忘れるな」と言われているような気がした。

認知症が進む母といるとつい怒ってしまうが、母に浴びせた強い声は、近い将来自分が浴びるのだろうそんなことを思わせられた。

父の病室で読んだシーンが、僕に反省を促すとしたら、これは亡くなった父が母を守っている?!急に今度はライチャス・ブラザースの「アンチェインド・メロディ」が頭の中でなり出してきた。

わぁ、くわばらくわばら。

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