分水嶺という言葉に出会ったのは、かなり昔。新聞の広告欄に森村誠一氏の作品が列挙されていて、「分水嶺」というタイトルを見つけた時だった。人の転機、「もしあの時〇〇しなかったら〜」など、人の転機、心の機微を細やかに描く彼の作風は好きだったが、社会人になって小説を読む時間を失ってしまっていた。何の気なしに「そうか、人の転機を水になぞらえて描く。さすが、森村誠一。うまいタイトル考えたもんだ。」と、独り言のようにつぶやいたのだが、それを聞いた上司が「えっ、分水嶺だろ。昔からある言葉だぞ。奥羽山脈とか背骨みたいな山のてっぺんに降る雨は、太平洋か日本海のどちらかに流れて行く。その分かれ目を言うんだぞ。知らないの?」何の気なしに発した言葉が、自分の馬鹿さ加減丸出しを周囲にひけらかすことになるとは!まさに分水嶺な発言だったと笑いを取った。これが分水嶺という言葉との出会いだった。
付き合った女性と別れた時も、「♪あなたは右に、私は左に〜」とアンルイスのグッバイ・マイ・ラブよろしくこれも生き方の分水嶺と、どうしようのないことと捉えていた。まぁ、かなり引きずったけどね。汗
ということで、自分の岐路の中で「分水嶺」という言葉は使っていたものの実際見たことは無かった。その川の源流、水源を探すのだって至難な技なのに、分水嶺は山のてっぺんに行かねば見れないものだと思っていたからだ。

改めて、ウィキペディアで見てみると、
分水界(ぶんすいかい、drainage divide)とは、異なる水系の境界線を指す地理用語である。山岳においては稜線と分水界が一致していることが多く、分水嶺(ぶんすいれい)とも呼ばれる。」との記載がある。

と言うことで、しっかりとした登山姿で行かなければお目にかかれない、そう思っていたのに近くで見ることが出来る場所があることを知った。宮城と山形の県境、JR的に言うと陸羽東線の堺田駅前にあると。
執筆中の原稿の取材中の出来事だった。
母の実家赤倉温泉に子どもの頃からよく通っていた場所にあるとは。しかも、その当時から無人駅だと、境目をさかい・だ!と宣言しているような地名で、子どもならではの蔑んだような目でこの急行なら通過駅をみていた。
僕はいつもこうやって、斜めに見ていたものから、しっぺ返しをくらいその時だけは神妙になるが、忘却し、またそれを繰り返す。
いやいや、反省文を書いているのではなくて、分水嶺の話だった。
そんなわけで(って、どんなわけだ!)、先日妻の仕事の運転手で川渡温泉までの運転手を仰せつかったのをいいことに、妻を送ると自由時間とばかりにJR堺田駅を目指した。(前置き長くてすいません)

国道47号線を山形県に向かって走る。鳴子、中山平を経て県境を過ぎ山形県に入ると、松尾芭蕉が宿を借りた封人の家がある。それを右手に見てすぐ左にあるのがJR堺田駅だ。
「おお、分水嶺の記述がある!!!!!!!!!!!!!!!!!」
少なくても30年前は無かったぞ〜と、直近のデータが古すぎるわ!

民家が数軒ある中にそれはあった。
心が踊っているのに、あまりに普通にあって、静かな衝撃を受ける。
IMG_3468
その横には分水嶺をイメージしたモニュメントが。
CIMG1604
モニュメントがこれ。
CIMG1606
寄ってみた!
IMG_3470
上(写真中央)から流れて来た水がここで左右に分かれ流れていきますというレリーフと、その水流。
IMG_0096
さらに山から流れてきた源流と分水嶺と僕(影のみ)

僕の長ったらしい前文を読んだ人は、この写真を見て。「はぁ〜!」と思われるかも知れないが、
本来なら山の頂上というか稜線でないとみることができないものがこんな風にいとも簡単に見えるのだから凄いのよ。
で、写真でいうところの右側が太平洋側に流れます。左側は日本海側に流れます。
宮城側に流れる水は、大谷川支流、大谷川、江合川、旧北上川を流れて116.2kmの旅を経て石巻から太平洋に流れます。
山形側に流れる水は、芦ケ沢川、明神川、最上小国川、最上川を経て、102.6kmの旅をして酒田から日本海に注ぎます。
この小さい流れが、大河になっていく。まるで、タイガーマスクが雪山に籠って、小さな雪の塊を山の上目がけて投げるとその小さな雪球は着地したところからコロコロ目の前の雪を巻き込んで巨大な雪球になって来たのを受け止めて必殺技を編み出した如く、小さなことからコツコツと的に下流に行くまで大きな水流になっていったわけよ。
え、この例えが無い方がわかりやすかった。そうですか、それは失礼しました。
どっちにしてもここから清流は100kmを超える旅をするわけよ。
しかもだったら、お互い50:50にしましょうかといいたいのだけど、僕が宮城県だからと言うわけで宮城なのに奈良判定しているわけではないのですが、右に流れる量が多く感じるのね。この真ん中で見ていると。
でも、本当にそうなんだろうか?
ということで、見た目でわからないから耳で聞いてジャッジを試みる。
10mくらい下流に行って、そこで流れる水流の音でジャッジしようと考えた。ね、いい考えでしょう。
まずは、分水嶺のちょっと上流

まずは水量が多いと目視で感じた宮城方面。
 
そして、流れが少ないのでは?と思ってしまった山形方面。
  
ね、音で聴くと右も左も変わらない。
やはり、星の王子様は、真理を知っていた。
『本当に大切なものは目に見えない。』
ははーん、こんなもんだと視覚の情報だけで安易に決めちゃってはいけないよということなのである。

*********************************
CIMG1591
おお、見たこと無い逆さまな日本地図!
*********************************


折角、ここまで来たので、終わりにせず、芭蕉ネタもちょっと。
CIMG1629
国道に戻れば、すぐあるのが封人の家。そう、松尾芭蕉と弟子の曽良が「奥のほそ道」で宿を借りた「封人の家」。この辺りを守る新庄の役人でもあり、この辺りの庄屋さんの家。雪が多く寒い冬場に大切な馬が寒くないようにと土間の中に馬屋が設けてある家だ。
芭蕉が、「蚤虱 馬の尿する 枕もと 」を詠んだのも、そういう間取りがあったからだ。
母方の祖父が絵馬に描いて、子どもたちにプレゼントしてくれた。家にもあり、まだ芭蕉を習う前から芭蕉とこの家とその句だけがインプットされていた。
子どもの頃連れてきてもらった思い出はあるものの、子どもだからね、あんまり興味がなかったというか、そんなもんで、馬小屋が家の中にあったことしか覚えていない。
CIMG1625
今回来てみて、こんな暗いんだとビックリ。明かりが充分な今と違うから、何かするには全部基本は屋外なんだね。天気のいい日は家の中にいちゃいけなかったんだ。
真ん中中央、座っている人の上で明るくなっているところがこの家の玄関。そのすぐ横に二本の棒があるところが馬小屋。それ以外の部屋は農具や収納場になっている。

CIMG1619
庄屋さんだけど、普段使いの部屋は板の間だったが、ここには役人さんも来るので床の間は畳敷きとなり、しっかり天井もあがっていた。
きっと、子どもたちが走り回って、入ると怒られたんだろうね。
家の裏手を除くと山側から細い水路が切ってあった。
んっと思って、管理のおばさんに「裏の水路らしきものはコンクリで固めてあるが、いつからあるの?」と聞くと、「この辺りは山から冷たい水が流れてくるから、昔から台所の洗い場に入るようにしてあったんだよ。余った水がその道を通って流れていたんだ。ルートを見てみると今は使っていないから、そうはなっていないけど、水が家の中に入り、余った水は、外に出て行くようなことが想像できる作りになっていた。湧き水掛け流し状態の炊事場だったんだね。

「実は、ずっと昔に立小路(赤倉温泉駅の次の駅あたり)の親戚の家に行った時、家の中の水路が引き込まれて、スイカなどを冷やしたり、野菜を洗うのに使っているのを子供心面白いなぁと思っていて、また見たいなぁと思っていたんだ」と話すと、今はそうした使い方をしている人は、今はもういないなとの答え。でも「よく覚えていること〜」と話しになり、赤倉の祖母の実家によく夏休みに遊びに行ってたんだと話すと彼女らも駅前の狭い階段を通って小学校に行った話などしだし、すっかり祖父母や叔父のことがばれ、あれこれ話になる。1つ上の従兄弟の名前も出てきて、おお、有名人!と驚く。というか、古き良きご近所感がうれしかった。

CIMG1638
帰りついでに夏の鳴子峡を見る。すごい深い渓谷だなと思いつつ、あ、この橋を今から渡るんだと怖がる。
ちょっと走ると碑があるので降りてみると、こんな急な坂を下ってあるのが尿前の関。
CIMG1651
CIMG1648

CIMG1645
門があり、その下には関所の跡があるばかり。
CIMG1646
ここは、多賀城から出羽に向かう最短ルート。古くからの交通要地、軍事上でも大事な場所だそう。古くは平泉に向かう義経が通り、生まれたばかりの義経の子・亀若丸が初めて鳴いた場所ということで鳴子となり、その子が初めておしっこした場所だから尿前となったそう!
切り立った崖の下にある湿った場所だから「しと」だと思ったのに、ビックリ。しかし、義経も我が子がおしっこしたから尿前という名前をつけられたことを知ったら、「もういいんじゃね」とか思わないのだろうか???
この尿前で怪しいと嫌疑をかけられ長く通せんぼさせられ夕刻になったので、宿を借りた芭蕉と曽良。そこで馬が尿(しと)をしたことにした句を詠んだのは、尿前ならぬ、尿後の話だったのかと合点した。